2013年5月19日の朝。
家族が見守る中、母は眠るように逝ってしまいました。
つい先日64歳になったばかり。
あまりにも早過ぎると神様を恨まずにはいられません。
病名は直腸癌。
それがわかった時にはすでにステージ3でした。
母はもとより、家族もひどくショックを受けたあの日のことを
今でもありありと思い出すことができます。
二年間の闘病生活、
何度も手術を繰り返し、
苦しいこともたくさんあったとは思うものの
今脳裏に浮かぶのは
母の明るい笑顔ばかりです。
闘病生活はまるでただひたすら後退戦を強いられているような感じで、
精神的なしんどさが家族をずっと包み込んでいましたが
それでも母が常に希望を持って明るく笑顔でいてくれたことが
どれだけみんなの救いになったことか。
母は一度も皆の前で泣いたりはしませんでした。
最初の手術が成功した後、
抗癌剤を始めましたが、
母には全く合わず、一週間吐き通しで水も飲めなくなり
どうしても止めざるを得ませんでした。
転移するかどうかわからない、それならば、と抗癌剤をやめ
ようやく回復してきた夏。
けれども、一年たった冬、再び体調を崩した母に転移が見つかり
そこからはただ破れた袋にガムテープを貼るような
応急処置のような手術を何度か繰り返しました。
手術の度に息が詰まるような苦しい待ち時間を過ごし、
手術が成功するたびに安堵の溜息をつき…。
その間に、別の抗癌剤を試してみても
前回と同じように水も飲めなくなって
髪もひどく抜けてしまったため
結局、母は抗癌剤を拒否し他の治療法へと切りかえました。
この頃には、家族みんな、母はそれほど長くは生きられない、ということを覚悟していたと思います。
ふくよかだった母が
徐々に痩せていくのを見るのが辛くて可哀想で
私もしばしば滋賀に帰ってきては看病をしていましたが、
母のそばにずっといられないことが歯がゆくて苦しくて
よく一人で泣いては、いいようのない不安に襲われていました。
もともと小さい頃から身体が丈夫でなかった私は
三人兄弟の中でも最も心配をかけ
甘やかされて育った末っ子で、
人一倍母親っ子でした。
私が中学生になった頃、大きな病に突然かかりました。
原因不明の血液の病気で
特定疾患と呼ばれ国から難病指定されている病です。
今もかかえるこの持病は数年前からはそこそこ安定状態ですが、
中学、高校時代はそれこそ何度も入退院を繰り返し、
一時は本当に死んでしまうのかと思うほどの状態に陥ったこともあって
その頃の母の心労はどれほどだったか…。
毎日毎日病院へ看病に来てくれ、
その思い出があるからこそ
私も母が入院した時、あの時母がしてくれたように、と
看病をしていましたが、
通えば通うほどあの時の母の愛情がわかって
自分はまだ全然返せていない、と思うばかりでした。
昨年の12月21日、腸閉塞をおこし母は最後の手術をしました。
今回が最後で、もうこれ以上は手術はできないし、
開けてみても成功するかどうかはわからない、という状況でした。
父親と姉と三人で待合室で待っていた時間は長くて…
先生が手術室から出てきて「とりあえず成功しました」と言ってくれた時、
父も姉も泣いて私も泣いて…。
残り時間は少なくとも
(おそらく食べられるのは2ヶ月か3ヶ月、と主治医に言われていました)、
この手術でまた食べられるようになって
お正月はみんなで過ごして…。
そして春。
体調はそれほど良くはないものの
姪っ子の入園祝い、ということで
両親、姉と子供たち、そして私と相方と
近所のフレンチレストランへランチを食べに行くこともでき
母も嬉しそうに笑ったりして
少し落ち着いてるので、このままもう少し…と思っていたら
中旬にまた食べられなくなって入院。
前々から相談もしていた緩和ケア科(いわゆるホスピス)へと転科しました。
入院した直後はまだ会話も普通にできていましたが
GWの頃にはもう自分では立てなくなって
ほとんど会話も一言、二言ぐらいしかできなくなり
急激に悪化。
いよいよ終末期に入ったことが家族に知らされ
この頃は夜に泣いてばかりでした。
いてもたってもいられず、実家に帰ってきて
毎日母のお見舞いと看病に行って
色々喋りかけたりマッサージしたりするのですが
反応がある日もあればうとうとと寝ている日もあり…。
一日一日が愛おしく、
病室からはいつもなかなか帰れませんでした。
18日の土曜日、義母と、兄の義両親が母のお見舞いに来てくれました。
私も数日だけ、とその日一旦大阪に帰ったものの
翌日、日曜日の朝8時前に姉から
母の呼吸が苦しそうだ、と電話がありました。
「わかった、すぐ行く」と電話を切り
とるものもとりあえず5分で家を出て
高速を飛ばして
転がり込むように病室に駆け込んだ時
母は私を待っていてくれました。
口はきけないものの
細く目を開けてゆっくりと息をしている状態で、
そのまましばらく家族水入らずの部屋の中で、
手を握りしめ声をかけ続けました。
時折、看護婦さんが様子を見に来てくれ、
そうして少しずつ呼吸が浅くなっていって
静かにそれとは気づかぬうちに
母は眠るようにそっと息をひきとりました。
器械やお医者さんに囲まれることもなく
最後の最後まで家族だけで過ごせたことを
感謝しています。
こんな風に痛みもなく薬を打つこともなく
静かに眠るように逝くことは
癌患者には珍しいそうで
それだけでも本当に良かったと思います。
家族が一番心配していたのもそのことだったので。
息をひきとってからしばらくして
看護婦さんがやってきて
主治医を呼んでくれ
形式的に時刻を告げてはくれましたが、
時間なんて家族にとっては大した意味はなく。
緩和ケア科では亡くなった後もゆっくりと時間をくれ、
朝からずっとついていてくれた看護スタッフがやってきて
湯灌の準備をしてくれました。
私と姉と看護スタッフの女性で
まだ温かい母の全身を綺麗にふいてあげて、
姉が一旦家に帰ってもってきた
母のお気に入りの紫の華やかなワンピースに
裾にフリルがついた黒のワンピースを内に重ね、
黒のタイツに紫色のショールを三人で着せてあげて、
私が最後にお化粧をしてあげて…。
最後に緩和ケアのスタッフ全員がお見送りしてくれたのですが、
みなさん驚いた顔をして
「○○さん、オシャレやね!」「綺麗やわ」と。
そう、母はいつだってオシャレな人でした。
これを聞いたらきっと嬉しそうに顔をほころばせるだろうな、と
服を選んだ姉と化粧をした私は目を見合わせて少しだけ
笑いました。
個室でゆっくりと家族だけのお別れをした後
葬儀場の方がやってきたので、部屋から車へと母をのせ
母とともに自宅へと帰りました。
苦しむこともなく
本当に眠るように逝ってしまった母は
母らしい穏やかな綺麗な顔で
自宅の和室にひいた布団の上に横たわっていると
いまにも起きてきそうな気がして
なんだか嘘のような夢のような…。
夢であるなら
早く覚めて欲しい。
今はただそんな気持ちと
お疲れ様、よく頑張ったね、と
ねぎらう気持ちと
ただただ寂しくて哀しくて、
色んな感情がぐるぐると渦巻いています。
父が葬儀場で
家族で並んでいる時に
「こういう時、いつも○○が横にいたからなんか変な感じや」と泣き笑いのような顔で言うので
顔がくしゃくしゃになりました。
姉も「なんであんなところに母さんの名前があるんだろうね…」とぽつりとつぶやき
家族のみんながまだ母がいなくなったことに
実感が持てないでいます。
結婚する時、着付けの先生でもある母が
娘三人に作ってくれた喪服に
一番最初に袖を通すのが母の葬儀だなんて
姉も義姉も私も、思ってもみませんでした。
通夜と葬儀は
何か考える時間もなく
呆然としたままあっという間に終わり、
最後にたくさんの美しい花で飾られた母は
本当に綺麗で眠っているようなのに
指先に触れた頬も額も鼻もまぶたも
ひどく冷たくて
母はもうここにはいないんだ、と感じて
こらえていた涙が溢れました。
お葬式が終わった後、姪っ子が
「そらちゃんが一番泣いてたね」と言っていたと
姉から聞かされました。
泣かないようにと自分では我慢してたつもりだったのに。
母は常に明るくてお喋りで
家族の中でムードメイカーのような存在だったので、
これからきっと徐々に喪失感が大きくなるのでしょう。
今もまだ母が入院しているだけのような
ただ不在にしているだけのようなそんな気がしてなりません。
けれど、母もようやく苦しみから解放され
向こうでダンスも着付けも好きなだけ
楽しめているのかもしれません。
母一人・子一人で育った母は、きっと今頃祖母と久しぶりの再会に
喜んでいるのかな。
「みんなで徳島に旅行にも行って、
北海道旅行にもみんなで行って、
子供たちはみんな結婚して孫も5人もいて
それなりに(母も)幸せな人生だったんじゃないか」
と葬儀がすべて終わった日の夜、兄が言ってくれました。
そうなのかな。
母さん、幸せでしたか。
そう信じてもいいですか。
最後に、母を奪ったことを恨む気持もあるけれど
それでも母が病気になってから二年間という時間を与えてくれた神様に感謝したいと思います。
気持的にはもちろん苦しかったけれど、
母と一緒に過ごす時間をたくさんとれたこと、
自分ができる限り、そばについて看護できたこと、
母が母らしくいられる時間が長かったことに。
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何度も何度も何度も書きなおしたり、消したり、
思い出しては泣いて、
投稿しようと思いながら投稿できないまま何日も経って、
また書いて…を繰り返しました。
しばらくしたら、通常更新に戻ります。
ブログ更新しました。[sorarium] – 初夏の別れ http://t.co/FcK3iIn9I7